2010年5月8日土曜日

電子書籍は何故失敗したか?

タイトルを見て,「これからのビジネスなのに何をいっているのか?」と思った人もいるかと思います.ご存知のように,アマゾンのKindleやアップルのiPadが発売され,さらに,グーグルも電子書籍サービスを始めると報道されたばかりで,今がまさに電子書籍の旬なのかもしれません.しかし,日本では10年以上も前から電子書籍サービスを試みようと,電子書籍コンソーシアムまでつくられ,実証実験も行われました.ところがこの試みは2000年の初めに終了してしまいました.

当時の試みは,書店に設置されたマシンから電子書籍リーダーに書籍データをダウンロードするという方式を考えていました.しかも,そのデータはテキストデータではなく書籍のページ画像そのもので,検索などの利便性は全く考えられていませんでした.書店に設置されたマシンを使わないとダウンロードできないような方式にした理由は,書籍流通における卸売業者が中抜きにされては困るということから反対があったからのようです.また,出版社は書籍の使用権をもっておらず,著者から電子書籍出版の承諾を得るのが大変で,本格的なサービスを行うために十分な電子書籍数を用意できませんでした[1].

このような事情を考えると,事業化できなかったのも納得します.しかし,現在はアマゾンの電子書籍サービスのように開始当初から何万点もの書籍を用意できるようになったプラットホームが存在します.また,紙媒体を減らしていこうとするエコロジーの考えからも,ドキュメントを電子的に読む習慣が一般的になったという追い風もあり,今回の電子書籍サービスは大きな事業になるものと期待されています.気がかりなのは,このようなサービスは,もはや著者,電子書籍販売業者,読者の三角構造だけでビジネスが成り立ってしまいますので,出版社や卸売業者は不要となってしまうということです[2].実際にアメリカのアマゾンではセルフパブリッシングといって,著者が直接アマゾンの電子書棚に本を電子的に提供し,売れた分だけ契約上の取り分をもらうというサービスが現実に行われています.中間マージンが極力減るというのは,著者と読者にとっては喜ばしいことですが,これが問題となって電子書籍がかつての例のように失敗しないことを祈ります.

参考資料:
[1] 佐々木俊尚, "電子書籍の衝撃-本はいかに崩壊し,いかに復活するか?", ディスカヴァー携書.
[2] 明石昇二郎, "グーグルに異議あり!", 集英社新書.
[3] 電子書籍コンソーシアムのホームページ:
http://www.ebj.gr.jp/

2010年5月7日金曜日

空気を読むだけじゃだめ

「そうだよね,良かった!やっぱり会って話すと気持ちがちゃんと伝わるよ!」
コーヒーショップで1組の恋人同士が話をしているときに,嬉しそうに彼女は言いました.昨晩の電話で口論となった2人は埒が明かないので会って話をすることとなったようです.人間がface-to-faceで話をするときは単に言葉を耳から聞いているだけではなく,相手の口調,うなずき,ジェスチャーなどを自然に観測しており,言葉の奥に隠れた真の気持ちを読み取ることによってコミュニケーションを豊かにしています.電話で話だけを聞いていると相手の反応がわかりにくく,おそらく問題があったことを説明するにしても言い訳がましい単語が長々と続き,聞く耳さえ持たなくなっていたのかもしれません.別の例を見てみましょう.

「バスがなかなか来ないなあ.待てよ,今日は祝日だから休日ダイヤだ!」
このような経験を誰もが一度は経験したことがあるのではないでしょうか?しかし,もし,バス停へ出かけようとしている時に家の玄関のインターホンのスイッチが入り,スピーカから,「今日は祝日なので電車やバスのダイヤには注意しましょう!」,と音声メッセージが流れたらこのような失敗を減らすことができます.
これらの例に共通していることは,人間がそのとき置かれている状況を自動的または自然に取得し,それをもとにその人が必要としている情報などを判断し,知らせていることです.最初の例のように,人間と人間との間ではごく当たり前に行われますが,相手がコンピュータの場合はそう簡単にはいきません.このように,人間とコンピュータとのコミュニケーションをより豊かなものにするために近年活発に行われている研究が,コンテクストアウェアネスです.

では,コンテクストとは何でしょうか?研究社新英和辞典でcontextを調べてみると,「(1)[文章の]前後関係,文脈,脈絡,コンテクスト,(2)[ある事柄の]状況,環境」,と書かれています.(1)は文法用語そのものなのであまり役に立たないかもしれませんが,(2)はまさにここで述べたい内容であることがわかるでしょう.これを踏まえてコンテクストアウェアネスとは何かを考えると,コンテクストを取得および解釈し,それをもとにユーザが必要とする情報やユーザにとって有意義な情報を判断すること,と定義することができます.言い換えると,「空気を読む」,という行為に近いと考えることができます.


辞典における “context” の説明

コンピュータがコンテクストを取得するとは,例えば,センサから気温,加速度,位置などを取得する,コンピュータやインターネットから予定表,天気予報,株価などを取得する,などが考えられます.センサから得られる直接的なコンテクストは一般的に低位レベルのコンテクストであり,それだけでは人間にとって有効にはたらく情報とはなりにくい場合が多いです.例えば,現在の時刻が「午前11時38分」というだけでは,単なる時間情報になってしまいます.しかし,そのときに人間がいる場所がレストランの近くだった場合は,「昼食」という上位レベルのコンテクストと考えることができ,その人にお薦めのメニューなどを提供すれば,それは立派なコンテクストアウェア・サービスとよぶことができます.

コンテクストアウェアだけではなく,それによって提供されるサービスがなくてはせっかくのコンテクスト取得が無意味になってしまいます.言い換えると,空気を読むだけではなく,それをもとに起こす行動が意味をなします.そして,その行動の良し悪しがコミュニケーションを豊かにするかどうかの鍵になるのです.入力だけではなく,適切な出力を制御する判断が,人間にとってもコンピュータにとっても重要だということが理解できますね.

参考資料:
上岡英史, "コンテクストアウェアネスを用いたアプリケーションの研究動向," 情報処理学会誌, Vol.44, No.3, 2003, pp.265-269.

2010年5月6日木曜日

マルチメディアは死語?

「マルチメディアは死語」という記述をよく見かけるようになりましたが,はたしてそれは真実なのでしょうか?実際にマルチメディアという言葉は現在でもあちこちで使われています.この疑問に迫るため,マルチメディアについて少し考えてみたいと思います.

何事も議論するには定義づけが重要です.まず,メディアとは何か考えてみましょう.メディアは英語ではmediaと綴りますが,英和辞典の説明ではmediumの複数形と書かれています.では,mediumとは何かと再度英和辞典で調べてみると,「手段,媒体」と書かれています.したがって,ここでは,メディアとは情報を表現,伝達,あるいは,記録する媒体と定義することとします.そう考えると,マルチメディアとは情報を表現,伝達,あるいは,記録する複合メディアと定義できます.すなわち,マルチメディアという言葉は複合化された情報形態を指しており,その語を使うとか使わないという流行語のような位置づけとして捉えることは不適切ではないかと感じます.

一方,死語とは何かというと,言語学の世界では自然言語のうち日常生活でその語を口にする人が存在しなくなり,実際には使用されていない言語を指すようである.しかし,冒頭でも述べましたように,日常生活においてもマルチメディアという言葉は現在でも使われていますので,死語というには無理があるようにも思えます.

では,何故,「マルチメディアは死語」と言われるようになってきたのでしょうか?それはマルチメディアという言葉をコンピュータで扱う情報という狭義の意味として捉えているからだと考えられます.少し前まではコンピュータで扱う情報は主にテキストデータであり,それにグラフィックスという描画機能が追加された程度でしたが,近年のコンピュータはこれらの情報はもちろんのこと,音声,音楽,静止画,動画などの情報表現,伝達,そして,記録ができるようになりました.さらに,情報の検索,蓄積,加工の他,複数の表現機能と表現の変換機能までも実現可能となり,マルチメディアコンピュータという言葉さえも使われていました.この点がポイントになります.すなわち,現在はパーソナルコンピュータですらマルチメディアコンピュータとしての機能を備えており,もはやコンピュータはそういうものなのである,という認識が一般化されました.その結果,コンピュータが扱う情報はマルチメディアであり,あえてそれをマルチメディアと呼ぶ必要がなくなったということができます.

結論として,コンピュータが処理する情報という観点ではマルチメディアという言葉を使う必要はありませんが,学問上の情報形態という観点では必要な言葉です.なぜなら,音声と映像をそれぞれ単体のメディアと考えた場合,その両方が存在するYouTubeやUstreamのコンテンツは明らかに複合メディアであり,マルチメディアと呼ばざるを得ないからです.すなわち,単体メディアに対する言葉としてのマルチメディアは必要であり,存在し続けなければなりません.言い換えると,学問上では必要な言葉ですが,日常生活においては使われなくなる可能性があり,死語の定義からすると確かに「マルチメディアは死語」であるのかもしれません.すでに死語であるのか,また,死語化しつつあるのか判断するのは難しいですが.もし,死語ということになった場合は,マルチメディアという言葉の寿命はとても短かったことになります.20年前には英和辞典にすらマルチメディア(multimedia)という言葉が記載されていなかったのですから.

2010年5月5日水曜日

ユビキタスは何処へ?

トリッキーなタイトルに思えるかもしれません.「ユビキタス」という言葉が一般的に使われるようになって約10年.ちょうどその間,携帯電話サービスも2G,3G,3.5Gと進歩してきたため,ユビキタスコンピューティングとモバイルコンピューティングが同義語のように使われていることもしばしばありました.そこで,今一度ユビキタスの定義を振り返ってみたいと思います.

よく知られているように,ユビキタス(ubiquitous)の語源はラテン語で「遍在する,どこにでもある」という意味です.この言葉を用いてユビキタスコンピューティングという表現を初めて唱えたのは,故Mark Weiser氏(当時米Xerox PARC勤務)です.では,ユビキタスコンピューティングというのは,その名の通り「どこでもコンピュータ」を意味するのでしょうか?Weiser氏は21世紀のコンピュータビジョンとして,これについて1991年にScientific American[1]で次のように述べています.「コンピュータは人間の日常生活に自然に溶け込み,その存在は人間の意識から消え失せる.」(コンピュータの不可視性).確かに,どこでもコンピュータを利用できる環境であればコンピュータを使うという意識は薄れていくと思いますが,「どこでもコンピュータ」も含み,その先にある未来のコンピュータ環境のあり方をユビキタスコンピューティングという言葉を使って説明しています.そう考えるとユビキタスコンピューティングとモバイルコンピューティングが同義語でないことがわかりますね.

このようなコンピュータの不可視性という概念は何やらモヤモヤとして今一つ理解しにくいので,以下の2つのコンピュータ環境における情報交換と考えてみましょう[2].ひとつは,至るところにコンピュータが存在し,かつ,それらが互いにネットワークで接続されることにより,場所を問わず情報交換が行われる環境です.もうひとつは,コンピュータそのものを使っていることを意識しないで情報交換が行われる環境です.前者は物理的なコンピュータの所在,あるいは,ネットワーク形態と関連しており,ユビキタスの語源そのものを指す遍在性(Ubiquity)を意味しています.一方,後者はユビキタスコンピューティングの最終目標であるコンピュータの不可視性(Invisibility)を意味しています.

ここでネットワーク形態に関してですが,いつでもコンピュータアクセスができるようにするためには,どこにでもあるネットワークに接続されたコンピュータを使うという方法とネットワークアクセスが可能なコンピュータを人間と一緒に持ち運ぶという方法があります.これは,自宅,外,会社それぞれの場所でコーヒーを飲むのも,コーヒーポットを持ち歩いてコーヒーを飲むのも,どちらもユビキタスコーヒーであることに変わりがないのと同じです.


ユビキタスコーヒー

現在,ユビキタスに関する多くの研究が行われていますが,それらは多かれ少なかれ,上記2つの情報交換に焦点が当てられているように思えます.例えば,モバイルコンピューティング,ウェアラブルコンピューティング,アドホックネットワーク,クラウドコンピューティング,ワイヤレス通信などはコンピュータの遍在性に関連しており,コンテクストアウェアネス,ユーザモデリング,拡張現実感,ユーザインタフェース,アンビエントシステムなどはコンピュータの不可視性と関連していると言えます.

このようなユビキタスコンピューティングは21世紀の幕が開けた頃からIT分野の主要研究テーマとなりましたが,現在はどうなっているでしょうか?ユビキタスという言葉は無くなってはいないにしてもほとんど耳にしなくなったような気がします.しかし,コンピュータの不可視性という究極の目標は全く達成されていないのも事実です.このまま「ユビキタス」という言葉は無くなってしまうのでしょうか?ユビキタスは何処へいくのか?これはWeiser氏が私たちに残した今世紀の課題なのかもしれません.なにしろ彼は1999年4月27日に亡くなっており,21世紀のコンピュータ環境を見ることができなかったのですから.もしかすると,ユビキタスという概念自体が日常生活に溶け込み,人間が意識しなくなっているために最近耳にすることがなくなったのかもしれません.もしそうであれば,Mark Weiser氏はとんでもない天才IT哲学者だっということになります.

参考資料:
[1] Mark Weiser, “The Computer of the 21st Century,” Scientific American, Vol.265, No.3, September, 1991, pp.66-75.
[2] 山田茂樹, 上岡英史, "ユービキタスコンピューティング;ネットワークとアプリケーション," 電子情報通信学会論文誌B, Vol.J86-B, No.6, 2003, pp.863-875.

2010年5月4日火曜日

はじめてのブログ

情報通信工学の研究者なので,ブログは是非ともやってみようと思い,ゴールデンウィークの休暇中に始めました.最近,Facebook,TwitterなどのSNSが大変流行っていますが,そのように社会インフラ化した情報ツールを情報通信工学の観点,また,ビジネスモデルの観点などから考えるのも面白いかと思っています.

SNSと関連するものですが,ネット上での評判に基づく通貨として,Whuffie(ウッフィー)という概念がありますが,これはなかなか面白い通貨です.通貨といっても実際にこれで何かを買うわけではありませんが,Whuffieが増加するとその人自身の価値が高いことになり,ネット上だけでなく実際のビジネスにも大きな影響を及ぼすまでになっています.Whuffieはそれを与えることによって増加し,また,貢献することによって貯まっていきます.つまり,ネット上に有意義な情報を提供する,あるいは,他の人と一緒に社会的に役立つコミュニティを形成するなど,ネットを通じた社会貢献をすればその人の信頼度が上っていくのも納得できると思います.

Whuffieについては,タラ・ハントさんの著書「ツイッターノミクス」(文藝春秋)に詳しく書かれていますので一読されることをお勧めします.この本は,シンポジウムや審議会などをTwitterで実況中継する(tsudaる)ことを始めた津田大介さんが解説しており,まさに今ネット上で起きていることの社会的意義を学ぶ上でとても参考になります.

「ツイッターノミクス」のホームページ:
http://bunshun.jp/pick-up/twnomics/