2010年5月22日土曜日

言葉に関する思い込み

英語を勉強するとき,多くの日本人にとって厄介なものが発音です.英語圏の人と舌の形が違うとかいろいろ言い訳をしたりすることがありますが,言い訳できない思い込みによる発音の違いもあります.私が英語圏の方に指摘されてギョッとしたことをお話しましょう.

英語で「発音する」は「pronounce」で,あえてカタカナ読みをすると「プロナウンス」と読むことができます(本当は若干違うかもしれませんが,日本人の感覚ということでご勘弁を!).「発音する」は動詞ですが,この名詞形である「発音」はどのように発音するでしょうか?「プロナウンシエーション」と答えた人は私だけではないと思います.本当は,「プロナンシエーション」です.「それは変でしょう,だって,pronounciationって書くのだからプロナウンシエーションだよ!」という声が聞こえてきます.しかし,これが思い込みで,言い訳できない間違いなのです.名詞形の「発音」の正しいスペルは,「pronunciation」で,これを見れば「プロナウンシエーション」ではなく,「プロナンシエーション」であることに納得がいくでしょう.

このように,先入観や思い込みで,明らかに間違いであることを絶対的な自信をもって正しいと勘違いしてしまう事が多々あるので注意が必要です.もうひとつの例ですが,政治の話題で政権公約とかマニフェストという言葉をよく耳にします.「マニフェストは公約なので,それを実現できなかったら約束を破ったことになる」というようなコメントが数え切れないほど発せられています.これは本当に正しいのでしょうか?「マニフェスト」を広辞苑で調べてみると,「宣言,宣言書」と書かれています.研究社新英和中辞典で「manifesto」を調べてみると,やはり,「宣言(書),声明(書)」と書かれており,さらに,「イタリア語ではっきり示すことを意味する」と付け足されています.では,宣言や声明は公約と同義語なのでしょうか?どう考えても私には同じ意味に取れません.念のため,ロングマン英英辞典で「manifesto」を調べてみると,「特に政党などの組織によって書かれた声明で,そうであると信じていること,そして,それを実行するつもりであること」,というようなニュアンスが書かれています.どう考えてもマニフェストは宣言,声明であり,公約と考えることはできそうもありません.

ここで,「マニフェスト」が「公約」なのかどうかを判定するつもりはありません.日本語の「宣言,声明」は「公約」を意味する言葉として慣習的に使われてきたかもしれませんので.しかし,この話題を英語圏の人と英語で議論した場合,話がかみ合わないのは言うまでもありません.「マニフェスト=公約」は日本人の思い込みであり,少なくとも国際的には正しくないと言わざるを得ないでしょう.

言葉に関する思い込みは,時には恥ずかしい経験をするだけではなく,重大な問題を引き起こすかもしれません.少しでも不安があったり自信がなかったりする言葉は,是非とも辞書を引いて確認する習慣をつけたいものです.カタカナの言葉に関しては英語辞典も調べてみると新たな発見があるかもしれません.今回も「manifesto」の語源はイタリア語であるらしいことがわかりました.また,「宣言,声明」は英語で「declaration」であるという確証も取れました.ちなみに,「pronounce」には,「公言する,宣言する」という意味もあります.これって「manifesto=pronounce」ということなのでは?今回のブログで取り上げた2つの話は,意外なところでつながっていることを偶然発見しました.

2010年5月21日金曜日

ひとにやさしいスマートフォン

iPhone,アンドロイド携帯,Windows Phoneなど,昨年から今年にかけてスマートフォンの利用者が爆発的に増加しています.スマートフォンは頭のいい携帯電話,すなわち,高機能携帯電話と言い換えてもよいと思います.ルーツは,PDA(Personal Digital Assistant)であり,それを発展させて携帯電話になったものと考えられますが,ポケベルの発展系とも思えるタイプもあります.実際に使ってみると,日常生活において使うレベルでは,パソコンでできることはほぼすべてできますし,携帯性や操作性を考えるとパソコン以上の利便性も備えています.スクリーンサイズも通常の携帯電話と比べるとかなり大きくなっています.しかしながら,問題点も多く存在していますので,それについて見ていきましょう.

スマートフォンの問題点として,消費電力が大きいという点が挙げられます.無線LANやBluetoothなどの無線通信機能を使っていると,半日も経たないうちに再充電しなければならないほどです.さらに,端末価格も大変高いです.人気モデルはノートパソコンの価格よりも高いことがほとんどです.加えて,文字入力がしにくいというのも問題点です.最近では手書き入力や音声入力も実装されるようになりましたが,それらの認識率は実用に耐えるレベルではないと感じます.

上記のようなスマートフォンの問題点はメディアでよく取り上げられますが,別の観点から見た問題点もあります.それは,スマートフォン中毒です.Twitterを含むSNSサービス,ブログなど,スマートフォンを用いて閲覧および書き込みが用意にできるようになりましたので,暇さえあればそれらにアクセスするようになり,特に若者を中心に四六時中スマートフォンをいじっていないと不安に感じる人も増えています.また,自分宛てのメッセージを受け取ると,すぐに返信しないといけないという感覚を持つようになり,就寝中もメッセージの着信バイブレーションで目が覚め,寝不足のために日中の集中力がなくなることも少なくありません.スクリーンも大きくなったとはいえ,パソコンと比べるとはるかに小さく,長時間使用には向いていないために頭痛,視力の低下,肩こりなどを引き起こすという問題も発生しています.

このように,便利であるが故に利用者が増え,そのため競争が起こってさらなる新機能の充実が行われ,ますますスマートフォンに対する中毒者が増えてしまいそうです.ビジネスという観点では売れる機能を充実させるのは当然かもしれません.しかし,健康を害せず,何気なく日常生活の助けとなるような,「ひとにやさしい携帯電話」こそが,真のスマートフォンなのではないでしょうか?

2010年5月20日木曜日

モバイルFeliCa

駅の改札で「ピッ!」と音を立てながら急ぎ足で駆け抜ける人々.便利になったものです.ちょっと前までは切符や定期券を自動改札機に通していましたが,最近ではバッグの底に定期券を入れておいても改札を通り抜けることができます.SuicaやPASMO(おもに関東圏)はFeliCaというソニーが開発した非接触型ICカードの規格で,チャージされた金額分の運賃をカードリーダーに読ませることで支払いができます.いわゆる電子マネーであり,EdyなどもFeliCaを使っています.カードというとなんだか名刺の大きさを連想するかもしれませんが,実際はそのカードにICチップが埋め込まれており,それがFeliCaそのものと考えた方が正しいです.そのICチップは携帯電話にも実装されるようになり,モバイルFeliCaとして利用できることも多くの人は知っているでしょう.

モバイルFeliCaはFeliCaのICカードにはない面白い機能があります.ICチップ内にはカードを識別する番号や電子マネー決済情報などを格納しているメモリが存在しますが,その部分はセキュリティ確保のためにユーザが利用できないようになっています.これは,モバイルFeliCaもFeliCaのICカードも同じです.しかし,モバイルFeliCaにはユーザ領域といって,ユーザが自由に利用できるメモリも用意されています.つまり,その領域にデータを書き込んだり,それをリーダに読み込ませたりすることができるのです.

当研究室の学生も,モバイルFeliCaのユーザ領域にプログラムを書き込んだり,そのプログラムをリーダに読み込ませてパソコンで実行させたりするアプリケーションを製作しました.普段何気なく持ち歩いている携帯電話をリーダにタッチするだけで,データやプログラムをやり取りできるので,直感的な操作という面でとても使いやすいです.USBメモリの場合は,いちいちパソコンのポートに差し込んでファイルをクリックしたりしなければならないことを考えると,雲泥の差です.しかし,ここでひとつ問題がありました.ユーザ領域には64バイトというスペースが3つ用意されており,合計でも192バイトしかありません.これでは,ほんの小さなデータしか格納できません.192バイトというのは半角文字192文字分ですので,電子書籍などは到底持ち歩くことができません.簡単なメモかインターネットアクセスのURLがやっとでしょう.

半導体技術の進歩を考えると,もう少し大容量のユーザ領域を用意することは特に難しいことではないはずです.是非ともソニーにはユーザ領域の拡張を検討して頂きたいと思います.それによって,新しいアプリケーションの創出が可能となり,新たなビジネスチャンスも開けるでしょう.

2010年5月19日水曜日

アンビエント.ミュージック

アンビエントとは,情報通信分野におけるポスト・ユビキタス,すなわち,ユビキタスの次にやって来る社会的概念と考えられています.アンビエント(ambient)は,「周辺の,環境の」という意味ですが,人間と環境とが溶け込んだ社会を「アンビエント社会」と呼ぶようになるかもしれません.「ユビキタス社会」という言葉も頻繁に使われていましたが,私自身どうしても馴染めない表現です.というのも,ユビキタスは遍在するという意味ですので,「ユビキタス社会」は直訳すると遍在する社会,すなわち,どこにでもある社会という意味になってしまい,何を指しているのかよくわかりません.同じように,「アンビエント社会」は環境社会という意味になってしまい,ますますそれが何なのかわからなくなってしまいます.

語句の意味はさておき,「アンビエント・ミュージック」というものがあります.イギリスのブライアン・イーノというミュージシャンが唱えた音楽の概念で,その語が示すように「環境音楽」という意味です.この表現は理にかなっています.すなわち,アンビエント・ミュージックはさまざまな場所や状況に溶け込むのです.例えば,1978年に発表されたイーノの「Music for Airports」というアルバムは,時折聞こえる空港でのアナウンス,飛行機のエンジン音,人々が集まった時のざわめきなど,空港という環境に存在する音と一体となった音楽空間を作り出しています.しかしながら,それらの音を直接混合しているわけではなく,人間が聞いたときにそれが気配として伝わるような融合された音楽空間を実現するところに面白さがあります.

実際に,何かを表す「もの」自体を表に出すのではなく,その「もの」を気配として何気なく感じさせる,そんなアンビエント・ミュージックはいろいろなことに応用できそうです.眠気を誘うような音楽もその一種かもしれません.しかし,私が欲しいアンビエント・ミュージックは,聞いていると電子メールが着信したことを何気なく伝えてくれるようなものです.ほとんど病気ですね.

2010年5月18日火曜日

情報伝達手段

通信は情報伝達手段のひとつで,その概念は大昔から存在しています.例えば,遠隔地の情報伝達手段として飛脚がありましたし,緊急の場合は狼煙(のろし)を用いた中継伝達(マルチホップ伝送)も用いられました.情報伝達は何のためにあるかというと,人間の意思の疎通を図るためにあると考えることができます.インターネットをはじめとする電気通信が当たり前の世の中ですが,ここはひとつ基本に戻って歴史を振り返ってみたいと思います.

意思の疎通を図るためには身振り手振りによる対面コミュニケーションがあります.目の前に情報を伝達したい相手がいるので視覚的に意思を伝える手段です.しかし,目の前に相手がおらず,また,いつ近くに来るかわからない場合は何らかの形で伝えたい情報を残す必要があります.最も原始的な方法は骨や石を用いて壁や地面に絵や記号を描くことでしょう.このように情報を記録・保存することで非対面コミュニケーションを実現できます.しかしながら,ここでひとつ問題があります.遠くの人に時間をかけて会いに行き,身振り手振りでは伝えられないほどの多くの情報を伝達しなければならない時はどうすればよいでしょうか?そのように時間や場所の制約を受けない情報伝達手段として,文字や紙の発明があります.ここまで来るとかなり私達の生活に近くなりますね.

文字と紙があれば何でもできそうですが,様々な場所にいる人々に情報を伝達するためには必要枚数の紙に文字を書かなければならず,数が3桁を超えるとほとんど不可能です.これを解決したのが印刷術の発明です.印刷術によって1対多の情報伝達が可能となり,かつ,情報の記録性も大幅に改善されました.印刷術はドイツのヨハネス・グーテンベルクによって発明され,聖書を印刷したことで知られています.まさしく時間や場所の制約を受けず多数に情報伝達できる素晴らしい手段です.印刷術は発明されてから500年以上経った現在でも,大活躍していることを考えるととても息の長い技術です.最近では書籍を含め,紙媒体から電子媒体に移行してきたものも多いですが,印刷術はまだまだ続くと思われます.

その後,本格的な電気通信技術が研究開発され,モールス信号伝送,電話機,交換機,真空管の発明があり,情報伝達距離が飛躍的に延びました.この時点でようやく,現在の「通信」と呼ぶにふさわしくなってきます.そして,無線技術の進歩とともにラジオやテレビなどの放送が実現され,音声と映像の同報通信が可能になりました.

さて,情報伝達手段の歴史を振り返ってみましたが,情報は意思の疎通を図るために何らかの形で表現され,伝達され,そして,記録されることによって私達の生活に浸透してきました.今日では,このような3つの特徴をもつものはメディア(媒体)という言葉で置き換えられます.すなわち,メディアという概念は,人間の意思の疎通を図るために何千年(あるいは何万年?)もかけて進化してきた文化と考えることができます.これからもこの文化の進化には目が離せません.電気の次はどのような形に変化していくのでしょう.

2010年5月17日月曜日

フリー(無料)の衝撃

「えっ,これもタダなの?」,と思えるようなソフトウェアがインターネット上には数え切れないほど存在しています.皆さんが公開しているホームページやブログ,さらには,電子メールアドレスも無料で提供されている場合が多いでしょう.このように,無料で様々なものを提供してはいるものの,ビジネスとして成立するという考え方がフリー経済モデルです.昨年出版されたChris Andersonの著書,「FREE」はこれについて詳しく述べており,今まさに,注目を浴びているビジネス手法です.

「フリー」の形態はおもに4つに分類されます.1つ目は,「2つ購入すれば3つ目は無料」,というようなフリーです.2つ目までの価格に3つ目の価格がちゃっかり上乗せされている場合です.ふたつ目は,「ユーザは無料でインターネット上のコンテンツを視聴できるが,広告も一緒に表示されるよ」,というようなフリーです.この場合,コンテンツ業者に広告料を払っている企業は商品価格にそのコストを上乗せしています.3つ目は,「基本パック版は無料だが,全機能を含むプレミアム版は有料だよ」,というようなフリーです.無料の基本パック版で試した人のうち,数人でもプレミアム版を購入してくれれば,その売り上げで他の基本パック版分のコストも回収します.最後の4つ目は,「貨幣価値的に本当に無料」,というようなフリーです.例えば,不要になった物を無料で誰かに提供する,自分の作成したソフトウェアをホームページ上に公開して無料で利用してもらうなどの形態です.

上記4つの「フリー」の形態について,Chris Andersonは,「直接的内部相互補助」,「三者間市場」,「フリーミアム」,「非貨幣市場」,と定義しています.4つ目の非貨幣市場に関してはお金が手に入らないのでビジネスではないと感じる方もいるかもしれません.確かに直接的にはそうですが,不用品を無料で提供することによって粗大ゴミとして捨てるための手数料が不要になる場合もありますし,無料ソフトウェアの提供によって評判,名声を得て,やがてそれがビジネスにつながる場合も考えられます.
このように,フリーという概念はユーザから見ると喉から手が出るほど嬉しく感じるところ,そして,多くのユーザに注目を浴びるところが重要であり,それをうまく利用することによってとてつもない富につながるところが衝撃的です.

今後,上記4つ以外にさらなるフリーの形態が創出されるかもしれません.また,そのような考え方が今の時代にとてもマッチしています.ただし,フリーを手にするためには何らかの個人情報,例えば,電子メールアドレス,性別,年齢層,居住地域などを提供しなければならない場合が多いので,自己責任の元で楽しんでいただきたいと思います.リスクとリターンはいつも背中合わせです.もし,それらの情報提供を拒むのであればサービスを受けなければよいだけです.選択の自由はユーザにあるのです.

参考資料:
[1] クリス・アンダーソン, "フリー-無料からお金を生み出す新戦略", NHK出版.
[2] 週刊ダイヤモンド, 第98巻12号, 2010 3/13.
[3] 苫米地英人, "FREE経済学入門-知らないではすまされない!世界を支配する「フリーミアム」の解説書", フォレスト出版.

2010年5月16日日曜日

大学授業料の無料化

大学で教育を受けるためには授業料等を払わなければなりません.しかし,日本の私立大学では国立大学と比べて,卒業までに何倍もの金額を納めなければならない場合が少なくありません.例えば,年間150万円必要な大学では,4年間で600万円という大金が必要です.普通に考えると,600万円というお金を貯めるだけでも,気の遠くなりそうな金額ですね.毎年支払わなければならないお金は,授業料,設備費等々いろいろな目的に使われますが,一番わかりやすいのは授業料です.というのも,時間換算できるからです.その授業料を無料にして,履修申請料という形にしたらどうかと思います.

通常,年間授業料を支払えば,その年度における履修単位数上限の範囲内で追加料金なしに何単位でも申請できます.しかし,必要な申請単位数は人によって異なりますし,単位を落として次年度に再履修をすると再履修料金を徴収する大学もあります.そのような環境では,年間に支払う一律の授業料が実質的に単位取得とどのように関係づけられているかわかりにくいですし,大学に支払う金額が増えることはあっても減ることはありません.優秀で頑張っている学生に対しては支払い額を減らしてあげられるシステムが必要です.

そこで考えついたのが,毎年,履修申請単位数に応じて申請料という形で授業料を徴収する方式です.しかも,当該年度に申請する単位数が多ければ多いほど1単位当たりの申請料を割り引くのです.この方式であれば,頑張る学生は可能な限り多くの履修申請を行い,単位を取得し,卒業までに支払う金額を抑えることができます.ただし,単位を取得できず次年度以降に再履修をする場合,その単位分に関しては割引対象申請単位数に換算しないことにします.

この方式は,単に再履修者からお金を多く払ってもらって,多くの単位を申請,取得する人に還元するというだけではありません.学生にとっても授業を真剣に受けて学習するという動機づけになるので,結果として授業内容の理解力も高まり,充実したレベルの高い高等教育の達成につながると考えられます.さらに,学生自身がどのような履修計画を立てるべきかを考えるようになりますので,中長期計画の意義を学ぶことにもつながります.

ここで重要なのは履修申請料の値段設定です.この設定を間違えると大学経営にも支障をきたすからです.しかし,卒業要件を満たすための最低取得単位数は決まっていますし,これまでの再履修状況のデータがあるわけですから,適切な分析を行えば履修申請料の落とし所を決定できるはずです.大学経営基盤を安定させるために授業料を一定額確保するという戦略は,少子化と受験者数減少とともに授業料の値上げに向かうことになります.その結果,さらに受験者数の減少を招くという悪循環が起こります.学生は自己能力の把握と学習計画性をもとにリスクとリターンをよく考えて履修申請を行い,そして,大学は適正な単位申請料を提示することで,市場原理に基づく大学ビジネスを求めてもよい時代になってきたのではないでしょうか?