私が大学生だった頃,携帯電話なんてありませんでしたし,大学の研究室でさえインターネットに接続されたコンピュータは1台もありませんでした.それほど昔の事ではないと思っているのですが,どのように日々の生活を送っていたのか思い出せないのが不思議です.友人と連絡を取るためには自宅の固定電話に電話をしていたのだと思いますが,よく覚えていません.また,旅行に行く時はどのように目的地を決め,どのようにホテルを予約し,そして,どのように目的地まで間違えずにたどり着いたのか謎です.おそらく,当時はガイドブックを買ったり,旅行代理店を訪問したのだと思うのですが,不思議なくらいその記憶がありません.
大学卒業までインターネットと携帯電話に触れたことがない私ですらこのような状況ですので,生まれた時には既にこれらが存在する環境で育った世代の人達は,私達の学生時代の生活など見当もつかないことでしょう.
では,携帯電話はコミュニケーション文化をどのように変えてきたのでしょうか?ここでいうコミュニケーションとは人と人とのコミュニケーションのあり方を指します.携帯電話はあくまでも電話ですが,ほとんどの場合個人を特定できる通信手段ですので,電話がかかってきた時に「もしもし○○です」とか,電話をかけた人が「もしもし○○ですが,○○さんですか?」などと言う必要がなくなりました.つまり,「電話がつながった=目的の相手と話せる」という方程式が成り立つのです.これは大きな変化ですね.同様のことが電子メールにもいえます.
これからわかることは,携帯電話は自分を名乗るという行為を必要としないコミュニケーション文化を作りだしたということができます.しかし,これがいつでも通用するというわけではありません.学生からの電子メール本文には,誰宛か(to)本文に書かれていないものが多く見られますし,誰から(from)かということも書いていない場合もあります.学生の場合は学籍番号を電子メールアドレスに使っている場合がほとんどなので調べればわかりますが,携帯電話の電子メールで送信者のアドレスが意味不明である場合にはコミュニケーション自体が成立しません.
このように,携帯電話世代のコミュニケーション文化では,わざわざ名乗らなくても相手が誰であるかお互いにわかっている,というのが大きな特徴です.友達どうしや家族間のコミュニケーションであれば携帯電話のアドレス帳にお互いの情報が存在していて,本文にfromとtoの情報がなくても自動的に表示してくれますが,それ以外の場合はコミュニケーション不可となります.この文化が悪いというつもりはありませんが,せめてコミュニケーションが成立するよい方法はないでしょうか?一番簡単なのは,誰だかはっきりとわかる電子メールアドレスを利用することです.現在は日本語を用いることができませんが,例えば,「佐藤良介@中島研究室.情報通信工学科.理工学部.天地大学.日本」などであれば簡単に誰だかわかります.会社や大学などの組織は階層化されているのでこのようなアドレス構成が可能ですが,英単語でしかも短縮されていたりするとすべてを予想することはできません.もちろん,日本語は他国では通用しませんが,せめて日本人どうしのやり取りではどこかでこのような名前に変換してくれてもよいのでは・・・.と,つまらないことを考えてしまいました.
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